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望月先生漫画と私


私と望月先生漫画との出会いは、92年、HMC受賞作の「二人の距離」です。

望月先生の漫画が花ゆめに載ったのは、「二人の距離」が初めてで、
当時小学生だった私には、24Pのその短編に強烈に惹かれました。

「二人の距離」はHMC、花とゆめ漫画家コースの銀のゆり賞受賞作です。
普通、HMCの受賞作というのはトップ賞でも、佳作、優秀賞どまりなので、
銀のゆり賞というのは、素晴らしく好成績な上、かなり珍しいものです。
(調べてみましたが、2002年現在、おそらく望月先生以降、HMCで銀のゆり賞を受賞した人はいません。
以前、成田美名子先生、神谷悠先生が受賞されている模様)
しかも先生はこの時、初投稿で、トップ賞でしたから、
銀のゆり+新人賞+トップ賞と三つの賞を同時に貰っていたのです。
※余談ですが、望月先生は他雑誌でかなり投稿歴があり、作風のためデビューならずとも実力は認められていました。

何故こんな事を私が覚えているかというと、「二人の距離」はHMCの選評と同時掲載されたためです。
HMCは募集と結果を各号ごとに取り上げていますが、
おそらく「二人の距離」は選評の時点で早々と本誌への掲載が決まったため
発表と同時に掲載される結果になったのでしょう。
こういう風に選評と漫画が同時に掲載されると、つい読み比べてしまうため印象が深くなります。
(HMCでトップを取ったら、その受賞作は必ず白泉社系の雑誌に掲載されるのですが、
花とゆめ本誌、別冊花ゆめ、増刊、など掲載先は様々です。)

さて、そんな「二人の距離」は、
銀のゆり賞をとるくらいですから当たり前のことですが、かなり好意的な評をされていたと思います。
二人の距離は24Pで、HMCが指定している16Pよりは長めなのですが、
増ページした分、きちんとストーリーを作っているため、そのへんに対しての言及は殆どなく、
人物の感情などがしっかり書けていて、そのあたりがとてもいい、という文意で書かれていました。
ダメだしは「フリーハンドの線と定規でひいた線が入り混じっていて統一されていない」という
ものぐらいだった気がします。(このへん確証はないのですが)

とりあえずこの短編が異常に気に入ってしまった私は、
「望月花梨」という名前をはっっきり頭に刻み付けました。
この人の漫画を次も読んでみたい、ちゃんと覚えてチェックしておこう、と思ったのでした。
なので「境界」という漫画が読みきりで載る、という予告が出た時に
すぐに望月先生の漫画と識別して、ワクワクしながら読んだものです。

そして、「境界」を読んでからも、もちろん望月先生の漫画が益々好きになったのは言うまでもなく、
初コミックス「コナコナチョウチョウ」が出た時には発売日をチェックするくらいでしたが
「こんな田舎じゃ入んないかも、ああイヤだ」と心配していました。
でも中学校の近くの本屋に一冊入荷してるのを見つけて、小躍りして購入。

しかし、私の周りには少女漫画自体読んでいる人も少なく、
ましてや望月先生の漫画を愛読して追っかけているという人は皆無でした。
丁度マーブルピンクが掲載された頃は、当時ITなどという言葉も無く、
まだネットスケープ(ブラウザ)が3.0で最新式ぐらいの時なので、私が「望月花梨」で検索しても
ロボット検索gooですら、(もちろん当時googleなんてなかった)一個もページを拾ってきてくれませんでした。
それでやさぐれた私は、二十個ぐらいしかHTMLタグ(=サイトを作るコンピュータ言語)を知らないくせに
望月花梨ページを作ってみようと思ったのです。
もちろん、当時、まだ今みたいにツールも回線速度も充実してなく、
圧倒的な知識不足のためそのページが完成する事はありませんでしたが、
タイトルは「マーブルガーデン」みたいな感じを考えていて、
(このあたりウォーターガーデン+マーブルピンクなどを意識していた)
赤白の混じったイメージの、ピンク背景のページでした。
(今の人物総覧のページはそれを引きずっています。多分。)

色々な話を聞く限り、それから一年くらい後には、望月先生の漫画感想ページなどもあったようです。
(が、今は残ってないようです。)
それから、あまりネットを使うこともなく、我が家のパソコンがヴァージョンアップしたのをきっかけに
また改めて望月先生の検索をしてみて、初めて私は色々な方の望月花梨ページにたどり着くことができました。
望月先生の漫画が好きな人々に初めて出会った私は、もう一度ページを作り直し、今に至ります。


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